親友というもの

前回書き忘れたのだけれど、そんなわけで自分自身の思考の整理・計画をしていくために、このブログを活用していきたいと思う。


ブログを再開するきっかけになったのは、ほかでもない親友の存在が大きい。彼の文章に触発されて、こうしてアカウントを作るに至った。自堕落にゲームをしたい気持ちもあったけど、きっとそういうことをしていると、余計ストレスを感じる原因になるんだろうとも思うし。

せっかくの休みの日に、ひたすら際限なくやりたいことをしてリラックスということ自体は、いいことだと思うし、それを否定する気はない。俺もそうしたい。ただ、自分の場合、そのほかの「やるべきこと」が頭にちらつくと、そういう「やりたいこと」を純粋に楽しめない性格なんだと思う。「やるべきこと」を整理して、「やるべきこと」を計画して、「やるべきこと」を履行し終えたとき、初めて晴れて「やりたいこと」を楽しめる……そういう人間なんだ。

そうすることができれば、自分自身に誇りをもっていられるし、多分、些末なことにイライラしたりしなくて済むんだろうなと思いたい。


例えば、しっかりと思考し、目標をもって、強く生きている者をみて、その輝きが眩しくて、自分を卑下してイライラするようなこと。


今回は、そんなお話。


耳が痛い、というものがある。
最近になってようやく気づいたのだが、どうも俺はプライドが高いらしい。

幼なじみに賢い親友がいる。
俺にとって彼は、賢者と先駆者というイメージが強い。
特に、子ども時代のホビー世界では、彼を中心に回っていたように感じている。
ミニ四駆の作り方を教わり、ポケモンのパーティ研究を共にして、ガンプラの扉を明けてくれて、Vドラコントロールという俺の手に余る武器を授けてくれて。

そして、俺は人の意見にことごとく耳を傾けない。それはもう。残念ながら、今もだが。

彼の意見は、たいてい、とても耳が痛い。

刺激が強すぎるんだ。だから、頑固で保守的で他人の意見に耳を傾けない俺にとっては、反射的に拒絶反応が生じる。それが正しいものだと、頭では理解はしていながらも。

いや、でも、だって。

そんな幼稚な接頭語をつけて、「俺はそうじゃない」と、自分を守って。

それは今もあまり変わらないけど。

だけど、きっと、その耳が痛いことに向き合ってこそ、自分自身の誇りを再度得られるのだろうと思う。

そして、自分自身に誇りをもって生きていられれば、そんなふうに外の輝きにネガティブな感情は生まれないんだと思う。

現に、「頑張っている」ときの俺は、誰かを羨んだりはしない。

そうだ、俺は頑張っている俺が好きだ。すごく。


自分を好きになろう。


なにかつまづいたときには、支えてくれる親友もいる。